LOGIN東栄都市開発から出された新しい条件案を、帝人は黙って読み進めた。
以前とは、明らかに内容が違っていた。
追加費用については、東栄側が保有資産の売却と借り換えによって一定額を自己負担する。
不足分については皇グループへ追加出資を求めるものの、その代わりとして事業上の一部権限を皇側へ移す。
さらに追加出資が回収されるまで、皇側の利益分配を優先する。
当初求めていた遅延損害の全面免除も消えていた。
「ようやく交渉案になったな」
帝人が資料を机へ置く。
東栄側の常務が小さく息を吐いた。
「前回までのご指摘を踏まえて、当社としても条件を見直しました」
「見直したというより、何を守るか決め始めたと言った方が正しい」
帝人は資料の一箇所を指した。
「東栄は事業への参加を残したい。その代わり、追加負担が発生した場合の利益と権限は一部譲る。そういう理解でいいか」
常務が直哉へ視線を向ける。
再協議から二日後。 各社で持ち帰った条件の確認が進み、共同事業はようやく次の段階へ移ろうとしていた。皇グループとしても、修正版の契約条件を法務と事業部門で確認している。 少なくとも、最初のように責任だけが大きく、権限が小さい状態ではなくなった。 だからといって、まだ参加を正式に決めたわけではない。「帝人さん、午後の法務確認なんですけど、先に共有された修正版だと拒否権の範囲が少し狭くなってます」「どこだ」「運営方針の変更全部じゃなくて、一定額以上の追加投資と事業目的の変更に限定されました」 帝人さんは資料へ目を通しながら、「その方がいい。通常運営まで皇の承認待ちにする必要はない」と答えた。「じゃあ、この条件なら参加ですか?」「まだ決めない。法務の確認も終わっていないのに決めるわけがないだろう」「ですよね。聞くだけ聞いてみました」 少し呆れた顔をされたけれど、私も本気で答えを期待していたわけではない。 だからこそ、その日の午後に届いた資料を見た時には、すぐに違和感を覚えた。 共同事業に参加している一社が、取引先向けに用意した事業説明資料だった。外部公開前の確認用として、皇側にも回ってきたらしい。 計画概要、参加予定企業、各社の役割と順番に読み進めていく。そこまでは特に問題なかった。 けれど、後半に入ったところで手が止まった。『皇グループ・皇社長の支持を得た本事業は――』「……支持?」 もう一度読み直した。 見間違いではない。 さらに先には、『皇社長も高く評価する事業計画』という表現まである。 帝人さんは、条件が改善されたことは認めた。検討余地があるとも言った。 でも、支持するとも、高く評価するとも言っていない。 似ているようで、まったく意味が違う。 私は資料全体をもう一度確認し、同じ意味の表現が使われている箇所に印をつけてから、そのまま帝人さんのところへ向かった。「帝人
条件再協議の日。 会議開始までは、まだ二十分ほどあった。 帝人さんは議長役の社長と事前確認に入っていて、私は会議室の外で資料の最終確認をしていた。 前回の指摘を受けて、運営会社の議決権だけではなく、重要事項の拒否権、追加投資時の権限、途中で運営方針を変更する場合の承認範囲まで整理されている。 見た限りでは、以前よりかなりまともになっていた。 ただし。 皇に権限を寄せすぎている部分もある。 帝人さんがそれを歓迎するとは思えない。「倉橋さん」 呼ばれて顔を上げる。 前の会議にも同席していた他社の秘書だった。 何度か挨拶をしたことはあるけれど、ゆっくり話すのは初めてだ。「お疲れさまです」「お疲れさまです。少しだけ、聞いてもいいですか?」「私で分かることなら」 彼女は一瞬だけ言いにくそうにした。「倉橋さんって……皇社長を止められるんですか?」 思っていた質問と違った。「止める?」「すみません、変な聞き方ですよね。でも、この前の会議でも皇社長に普通に意見を言ってましたし、その前も資料のところで話に入ってましたよね」「はい」「それで皇社長、ちゃんと聞くじゃないですか」 私は少し考えた。 ちゃんと聞く。 確かに、その通りではある。「止めてるつもりはないです」「そうなんですか?」「はい。違うと思った時に言ってるだけなので」 相手が少し首を傾げる。「でも、それを言える人ってあまりいないですよね」「それは……どうでしょう」「少なくとも、私は無理です」 即答だった。 私は思わず笑いそうになる。「皇社長があの顔で『何が問題だ』って聞いてきたら、たぶん私、問題なくても『ありません』って言います」
条件の再検討には数日かかることになった。 その間にも、共同事業そのものを止めるわけにはいかない。 皇グループ側では、新しい条件が提示された場合と、そのまま撤退する場合の両方を想定して資料を整理することになった。 ただし。 帝人さんから出た指示は、意外なほど少なかった。「撤退前提で動きすぎるな。残留前提でも動くな。今必要なのは、どちらを選んでも判断できる材料だ」 それだけだった。 だから私は、各部門へ余計な作業を増やさないよう連絡をまとめ、会議資料も二つの結論へ分岐できる形で整理していた。 帝人さんが決める前に、こちらが勝手に結論を作らない。 でも、決めたあとに一から準備することもしない。 その境目が、以前より少し分かるようになった気がする。 ◇◇◇◇ 数日後。 条件再協議の前段階として、参加企業の代表者が集まる非公式の意見交換会が開かれた。 正式な会議ほど人数は多くない。 帝人さんも何人かの経営者と話していて、私は少し離れた場所で次の予定を確認していた。 その時だった。「このまま皇に譲歩し続けるのもどうかと思います」 近くから聞こえた声に、私は何気なく顔を上げた。 二人の男性が話している。 一人は前の会議にも参加していた若い役員。 もう一人は、最初の日に帝人さんへ「皇君」と声をかけていた商社の会長だった。「譲歩ではない」 会長が静かに答える。「条件の不整合を直しているだけだ」「ですが、皇グループが抜ければ困るという前提で話が進んでいる以上、実質的には皇社長の要求を飲んでいるのと同じではありませんか」「なら、飲まなければいい」 若い役員が黙った。 会長は持っていたグラスをテーブルへ置く。「皇を外して成立する案を作ればいい。それができないから、皆が条件を組み直している」「ですから、その状況自
休憩が終わり、会議室へ戻ると、各社の空気は明らかに変わっていた。 さっきまで机の上にあった資料には、新しい付箋や書き込みが増えている。皇グループが本当に抜けた場合、何が崩れるのかをそれぞれ確認したらしい。 帝人さんは席へ着くと、何事もなかったように資料を開いた。「では、続けましょう」 その一言で会議が再開する。 けれど、すぐに条件の話へ戻ることはなかった。 不動産会社の社長が、帝人さんをまっすぐ見た。「皇社長。一つ確認させてください。皇グループが撤退すれば、この事業が大きく揺らぐことは、当然ご理解されていますよね」「ああ。資金調達だけではない。物流、商業運営、テナント誘致、その他の契約にも影響が出る。それくらいは把握しています」「それを承知の上で『皇は降りる』と言われれば、他社としては条件を変えざるを得ません。結果だけ見れば、事実上の圧力ではありませんか」 室内が静かになった。 私は帝人さんを見る。 相手の言っていることも、分からなくはない。 帝人さん自身は「嫌なら降りる」と言っているだけでも、皇が抜ける影響が大きすぎる。それなら選択肢を与えているように見えて、実際にはほとんど選べないのではないか。 帝人さんは少しも表情を変えなかった。「違います。俺は条件を変えろと命令していません。皇がこの条件では参加できないから、参加しないと判断しただけです。御社が今の条件を守りたいなら、そのまま進めればいい」「ですが、皇なしでは成立しない可能性が高い」「それは俺が作った条件ではないでしょう。この事業が皇の資金や信用、物流網を必要としている。それを前提に各社が計画を組んだ。なら、皇が参加できる条件を用意する必要があるのは当然です。必要な相手に対して、責任だけ大きく、決定権は小さくていいという理屈にはならない」 声は静かだった。 でも、言葉に逃げ道がない。「俺が言っているのは単純です。皇が必要なら、皇が負う責任に見合う権限を出してください。必要ないなら、皇を外
翌週。 財界合同協議会の二回目が開かれた。 前回、帝人さんが指摘した追加負担や物流条件については、各社がそれぞれ修正案を持ち寄っている。 会議は前よりずっと具体的になった。 自社がどこまで負担できるのか。 どの条件なら参加できるのか。 帝人さんの判断へ乗るのではなく、それぞれが自分たちの事情を言葉にしている。 そこまではよかった。 問題が出たのは、施設完成後の運営権についてだった。「運営会社への出資比率についてですが、幹事企業側で過半を確保する案を維持したいと考えています」 議長役の会社が提示した案に、帝人さんが視線を落とす。 皇グループは、今回の事業でかなり大きな負担を引き受ける予定になっている。 資金だけではない。 開発後の商業運営。 物流。 テナント誘致。 複数の皇系列会社が関わる。 それなのに。「皇の議決権は二割ですか」「はい。ただし、重要事項については事前協議の場を設けます」「決定権は?」「最終的には過半を持つ運営側になります」 帝人さんが資料を閉じた。 嫌な予感がした。「では、皇は降ります」 静かな声だった。 怒っているようにも聞こえない。 でも。 会議室が止まった。 私は思わず帝人さんを見る。 今。 降りるって言った?「……皇社長」 議長役の社長がゆっくり口を開く。「それは、この運営案からという意味でしょうか」「この共同事業そのものからです」 さらに空気が重くなる。 帝人さんだけが普通だった。「皇が負う投資額と実務責任に対して、意思決定権が小さすぎる。事前協議があっても、最終的に他社が決められるなら同じです。責任だけ負って、判断できない事業には参加
休憩を挟んで再開した会議は、さっきより具体的な条件の話へ入っていた。 各社の出資比率。 追加費用が発生した場合の負担。 施設完成後の運営権。 どれも一社だけでは決められない。 だからこそ、話は簡単にはまとまらなかった。 帝人さんは資料を見ながら、必要なところだけ口を挟んでいる。 さっきまでのように次々と問題を挙げるわけではない。他社の意見も聞きながら、条件がどこへ落ち着くのかを見ているようだった。「追加負担については、各社の当初出資比率を基本とする案でいかがでしょうか」 議長役の社長が言う。 すぐに何人かが意見を出した。 上限を設定すべきだという会社。 事業規模に応じて負担を変えるべきだという会社。 一定額までは共同比率、それを超えたら再協議にしたいという会社。 どれも理由がある。 しばらく議論が続いたあと、一人の社長が帝人さんへ視線を向けた。「皇社長は、上限を設けた上で出資比率に応じて負担する案が妥当というお考えでしょうか」「現段階ではな」「でしたら、弊社もその方向で異論ありません」 続いて、別の企業も同意する。「皇社長がそう判断されるなら、こちらも賛成で構いません」 私はなんとなく帝人さんを見た。 帝人さんは喜んでいなかった。 むしろ、わずかに表情が冷えた。「それは、おかしいでしょう」 会議室が静かになる。 最初に賛成した社長が眉を上げた。「何か問題がありますか?」「俺が賛成したから賛成する、という部分です」 帝人さんは資料を閉じた。「俺は皇グループにとって、この条件なら検討できると言っただけだ。他社にとって妥当かどうかまで判断したつもりはありません」「もちろん、それぞれ事情はありますが、皇グループが受け入れられる条件であれば、一定の合理性は――」「そ







